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    25/02/2009

    旅人

    四月からの人生を考える力はなかったです
    ちょうど一年前のこの時期、某(一応)先輩に「つねに計画をきちんと立て」との教訓を預かりましたが、
    「理由なき反抗」によって、まったく違う方向へ滑ってきた今日の私がここに居ます。

    私は永遠の旅人でいいです。
    終着地なんか考えたくないんです。
    一番居たかったふるさとは、もはや、ふるさとじゃなくなったからです。
    はい、面倒くさい話を止めて~

    つい今日の午後、卒業旅行のための韓国ビザ~取れました~
    ほっとしました☆

    午後2時以降って言ってくれたのに、3時に行ってみたら、まだ出来ていなかったようです
    「早かったね」って言われました
    それで、領事館のお姉さんがその場でパパっとビザを貼り付けてくれたみたいです。
    旅行中の注意事項を聞いてみたら、「特にはなし」と

    しかも、別に今すぐ行かなくても、5月24日前まで韓国に入国すれば15日間滞在できるわけです。
    一瞬、じゃあ、あたし福岡で一週間居ます!と妄想しました(笑)
    本気に、青春十八で福岡から札幌に戻って、また別な時間で、ゆっくり韓国一周でも~と考えました!
    ……この自己中心の馬鹿野郎!

    だって、私は別に誘われた人間ではなく、自分がついていきたかったから、勝手にみなさんの個人情報を大韓民国領事館に提出したことまで、みんなに迷惑をかけたではないか、と思われるだろう、と思っています。

    とりあえず
    計画性が欠如しているゆるゆるは、ようやくこんな計画を書きました

    2月28日 小樽→敦賀(フェリー)、船中泊
    3月1日 敦賀→京都(JR)、ユースホステル一泊
    3月2日 京大見学、夜行バスで福岡へ向かう
    3月3日 九大見学、夜のフェリーで対馬へ向かう
    3月4日 a.m.4時から対馬で偉大なるT澤先生、Mickey先生、犬和田先生の光臨をお待ちいたす
    そして、3日間ずーずーしく先生方の後ろに捨てたかったのにやっぱ付いているニャンちゃんのようにうろうろ
    3月7日 釜山→ソウル、鉄道があるはず(まだ分からない)、ジンジルバン泊
    3月8日 旧京城帝國大學見学 (でも、さき韓国人の知り合いに、つまらないよと言われましたあせあせ(飛び散る汗)
    3月9日 ソウル一日散歩 梨花女子大学に写真撮影に行く (4年前、デジカメがなかった)
    3月10日 ソウル→仁川→東京
    3月11~15日 三四郎池見学、六本木でふらふら…またいろいろが出来るかもしれません
    3月16日 札幌に戻り、歯の手術を受けること

    二週間家には居ない!恐ろしい計画です。
    しかも、3月18日までは、二日間しかない!
    まずいです。ちゃんと書庫とさようならをいわなきゃ泣き顔

    今まで200回以上 韓国に行きたい と宣言したのに、
    本当にビザをとって、行くとしたら、やっぱり不安です。
    道に迷っちゃうかな、言葉が通じるかな、お金足りるかな、価値がある旅行になれるかな、
    いろいろ考えすぎ(笑)
    なぜか、同じ学生なのに、やっぱり四年前と違うような気がします。
    馬鹿なことをしてばかりいるんですが…

    九州と釜山はきっと札幌より暖かいでしょう
    ソウルはやっぱり札幌と同じぐらいでしょう
    特に、パソコンを持っていくか、持たないかの問題に、悩んでいます…
    15/02/2009

    再挖一坑

    一个月之后添加
    14/02/2009

    stalker

      早上先是跑到12条的生协拿了预定的巧克力,再跑到8条的图书馆,为了做掩护,昨天提前借了两本画册放在纸袋里。没有如一贯的风格直奔寄物柜,而是小心翼翼,亦步亦趋。。nod,一个成功的stalker首先要保证自己不被对方发现。左右观望,不料竟然在最初的30秒就发现了目标-.-b 比我预料的早。
      在札幌的第一个バレンタイン,同宿舍的小mm做了手工巧克力拿来大家一起分享。甜蜜温馨。于是第二个バレンタイン,自己跑去买了一堆板巧克力回来,融化、加朗姆葡萄干、加核桃仁……灌了一堆心心,包起来一大袋拿到打工的地方。然而手艺太差,抑或板巧克力太寒酸,效果其实并不是很好。不过还是受到了上司们的好评——唯一的问题就是朗姆酒的分量似乎过多……第三年,自己也懒得动手了,又正好碰上滑雪合宿,于是针对德高望重的某阿姨前辈提出的“滑雪当天让我们一起赠送男生们巧克力吧”的提案,不知道跑了多少次百货商店。可惜百货商店的品种虽然缤纷,价格固然惊人,却实在没有合我心意的。其它人还好办,我的「王子様」对甜食没有爱,对果仁又深恶痛绝,我所知道的1唯一的爱好,是红润可爱的大苹果……无奈时代虽然进步,还真是找不到苹果馅的巧克力(桔子、橙子、草莓倒是司空见惯)。我还曾在苹果派的柜台前再三徘徊,无奈那个一定要热腾腾刚出炉的才诱人……所以jms啊,男人太有sense也不是一件好事-.-bb
      但是,既然「王子様」的sense和智慧拯救了论文地狱中挣扎了许久的本白痴,那末就一定要好好道谢——在日本,バレンタイン早已不仅仅限定在情侣中间,家人、朋友、上级、老师……特别是平时关照过自己的人,男女老幼都可以送。只是有一条基本:2.14由女性送礼,那末3.14则由男性还礼,称作White バレンタイン,想必很多人都听说过啦但是为啥这一条在中国没有风行起来呢?百思不得其解。15年以前,日本还是女性赠送巧克力,男性赠送玫瑰花,然而中国的巧克力始终没有向日本的百货商店标准发展,据说迄今仍然停留在德芙的平均水平-.-b(呃,我只是觉得花样太少了)而男生则年复一年忧虑玫瑰花的价格,哎,好不容易过个节,温馨气氛都被money冲淡了许多。
      反之,日本也有很多女生认为友情巧克力是无聊之举,又给被赠送者增加负担,所以如果没有恋人的话,还不如买给自己犒劳一下平时的辛勤。不过,我终究无法抵抗去年以来研究室流行的「恋って素敵、愛って素敵」(爱恋是美好的,爱是要赞的……)的风潮……长老人物Aki jj每次见到我都以“买好巧克力了吗?写好答辩的稿子了吗?”作为问候语,原来,答辩终究不如巧克力重要。
      因为论文的时候救我于水火之中,某师兄被Aki jj戏称为我的「王子様」。其实Akijj她们并不知道,「王子様」教给我的远远不止论文和语法。从达利、苍井优、宫崎葵,到宪法9条和自卫队……总是用他真诚、细腻、准确的词语让我认识到自己其实只是个一知半解的小白痴-.-b 啊,王子sama在我心中永远是那样的闪闪发亮~~~~
      回头再说stalker。因为迄今为止所有与王子sama的相遇全都发生在图书馆,所以图书馆也就成为了“唯一能够遇到王子sama”的场所。进入书库之前和退出之时,都必须在一张纸上签名,连续数周的周五都发生了小白痴的名字跟王子sama的名字连在一起的偶然事件……通过这些偶然,小白痴终于悟出了王子sama行动的规律,所以才白痴到想出stalker这种(犯罪)手段。
        10点半,王子sama把书包外套丢在桌子上去觐见教授(推测)
        11点50,王子sama归来,又光速抱着面包冲出去(目击)
        12点05,王子sama归来,光速入侵书库(目击)
        说是光速,当然没有那么夸张,请原谅我别扭的叙述方式。
        我坐在丢着王子sama的书包外套的桌子的后面的后面的一张桌子,因为这里可以清楚地看到图书馆的入口出口。可能很多人看不下去了,开始bs我为啥木有行动,弄得像臭名昭著的特高课。。然而,当我看着我闪闪发亮的王子sama在努力K书的时候,我哪里好意思冲上去搭讪涅……而且还是在图书馆里!
      于是,我翻开那本画册——收录了许多参与救护工作的外国人士的日记和当年照片的,关于我一直挂在嘴上嚷嚷,但却从来没有真正深入去了解过的那段战争年代的悲惨往事的资料集。边看边郁闷……忧伤……迷茫……窗外的乌鸦一早就叫个不停,我每次走在路上听到他们的噪音,总会觉得是对自己的嘲笑。
      看完画册,1点40,王子sama出现……根据过去的经验,这是回家的征兆。
      于是,光速冲到前台,还掉沉重的书籍们。光速飘到图书馆外面,在最初被无视过一次的入口告示栏处,威风凛凛地,正大光明的开始stalker。觉得好可笑,好像初中以后就再也没有做过这类事情了,为什么这两年异国的生活,又把自己变回了初中时候那个傻不啦叽的丫头。我也又一次明白了恋,和恋爱,和爱的区别在哪里……
      大约13点50,拦截成功。
      恭恭敬敬地呈上叫做“把面包变好吃”的研磨咖啡豆,开始接受诸如“最近有没有好好学习”的审讯……其实对于咖啡,我更加是一无所知。我不知道不加牛奶不加糖的咖啡究竟美味在哪里。大概是因为我在心智上始终没有迎来成长,因而无法体验大人们的世界吧。不过话说回来,给一个偶像般的存在的人物挑选バレンタイン礼物,总归是一件严肃又困难的事情~窗外的乌鸦依然在大声叫嚷。呃,你们就放过我一回吧,明年就不在这里了。
      王子sama,闪闪发亮~~>.<~~而我,只是一个微不足道的stalker。
    12/02/2009

    札幌に来てから初めて その四

    いつのことでしょうか、りんごはフジだけを食べていることを気づきました。
    大学の親友と一緒に買出しに行ったとき、彼女たちはとりあえず一番安いりんごを買うのです。
    普及以来十年以上も経ちましたが、いまでも「フジ」を聞いて、すぐ「日本のりんごだ」と思う人が居ます。
    かつて新聞に「フジは日本から輸入したりんごじゃなくて、山東産だ」と偏見を是正しようとする記事もあったと覚えています。
    どうでしょう。
    もちろんいまよく食べるフジりんごは山東産ですが、もともとは日本の品種ではないですか。
    本籍はどこでもいい。おいしいことは何よりさりんご

    しかし、「忘れないでね、昔の国光ちゃんがくれた幸せ」とマスコミに言われたように、
    国光はよく過去の在来種としてフジと対比されています。
    http://www.sdny.gov.cn/art/2007/11/23/art_1121_81076.html
    http://shipin.people.com.cn/GB/8488013.html

    このような結果は、主にそれぞれの名称が帯びるイメージから生まれた誤解が大きな理由だと思っています。
    「国光」を言えば、国家の栄光と理解する人が多いかもしれません。
    自分も昔、そう思う一人でした。
    ほかに「紅玉」も「香蕉」も田舎っぽくて、「フジ」のほどはっきり日本のイメージを打ち出すのではないんです。

    ですから、札幌に来てから、初めてりんごのルーツを知りました。
    きっかけは修論のための史料調査です。
    去年の六月、農学部の知り合いに連れられて、帝大時代の卒論を保存している図書室の奥に潜入しました。
    農学実科が留学生受け入れのメインで、さらに園芸学教室所属する人が多かったらしいです。
    ですから、卒論のテーマに「苹果」という言葉がたくさん出てきました。
    現在の日本語では、りんごと呼ばれる果物は、中国では、「苹果」と呼ばれています。
    あれ、昔日本語も「苹果」の言葉を使ったか、というは最初の反応でした。
    そして、朝鮮人留学生の卒論にも、「苹果」に関する研究がたくさんありました。
    北大の園芸学といえば、経済作物の綿花と果物がメインだったの感じがします。
    指導教官の星野勇三、後の島善隣(よしちか)は苹果の専門家です。

    ☆中国語の苹果は、もともと在来の果物を指す言葉ですが、日本が媒介として、アメリカ原産のりんごをアジア、中国に広げる中、用語の乱れがありました。
    いつ、なぜりんごに変わったかはまだ知りません泣き顔
    朝鮮半島では、1944年まで、苹果試験場(黄海道=現在北朝鮮)という用語がありましたが、
    いまの韓国語では、サグア(沙果)と呼んでいます☆

    1913年、中国東北に満鉄が農事試験場を作りました。
    それから、日本の作物・動物の品種を中国に導入する試験が積極的に行われていました。
    札幌で育成された某水稲は、中国人がそれを導入しようとする時、一回失敗しましたが、数年後、満鉄の農事試験場によって、栽培が成功しました。
    土地の買収、人夫の賃金などの側面では、いろいろ批判されても仕方がないんですが、
    それらの試験場は、ただで新品種を農家に配り、勧めたことを通して、中国東北地域の作物品種改良に大きな貢献をしました。
    大正10年代、りんごの産量は5倍増加しました。
    満洲国ができた後、過剰な果物を日本に輸出させられるようになりました。
    そのなか、りんごは長持ちなので、一番注目されてます。

    満洲でも日本内地と朝鮮に於けると同様、国光、紅玉が最も多く栽培されて、値段が安い倭錦の栽培も多かったそうです。
    それに対して、満洲国立農事試験場は、国光及紅玉は風味、収量、貯蔵力等の点から見て優れたのに対して、倭錦は日本内地で売れないことから考えて、やはり、奨励すべき品種ではないという結論をしました。
    まあ、さすがに輸出を目指す産業構造ですね。
    生産地の消費願望は無視してもいいですか!
    でも、子どもの頃、倭錦という名前も聞いたことがありますから、その後、すべてを植え替えたことはないと思います。

    何となく今のことを思い出しました。
    日本市場で売っている電子辞書は、すべて中国製造ですが、2004年頃まで、中国で日本語の電子辞書が買えませんでした。
    ようやく、Casioが進出しはじめたが、電子辞書に入っている辞書は全然違います。
    日本市場のそれは、広辞苑(か大辞泉)、小学館の日中中日、そして漢字源がメインですが、
    中国市場のそれは、中国が編纂した辞書がメインです。
    凄いギャップがあります。
    ♪うちらのクラスは、日本人先生を頼んで、「密輸」しましたけど
    「経済の国際化」には、少し、がっかりしました。

    よく言われた中国は一番良い製品を輸出して、一番売れない製品を国民に売ることは、
    逆に考えれば、むかし、給料で高級製品を買えない現実もありましたが、
    結局、こんな観念は今でも変わっていないんですね。

    まあ、話をりんごに戻りますと、
    国光、紅玉も日本から導入してきたりんごだ~
    ということは、札幌に来てから、初めて知ったことです。
    フジだけは日本のりんご品種だというのは大誤解です。
    さらに、
    ①ブラントは大切だ!
    電気製品も索尼=ソニーは日本のものだとみんな知っているが、AIWAが愛華と訳されたので、中国のものだと思い込んだ人が多いです。
    ②でも、日本のものならボイコット!という考え自体はダメです。
    国光、紅玉の誤解は、戦前(いわゆる悲惨な被侵略時代)の人々の活動によって、よく土着化したからです。
    ③星野先生、島先生ありがとうりんご
    11/02/2009

    札幌に来てから初めて その三

    春節聯歓晩会は海外でも簡単に観られるのはウソだと知りました。

    春節聯歓晩会ってゆうのは、日本の紅白歌合戦みたいな存在です。
    旧暦の大晦日に、夜20時から元日の夜中1時ごろまで、
    中国中央テレビ(CCTV)チャンネルワンが行う五時間近くの生中継です。
    出し物は歌だけではなく、漫才、雑技、マジックなどいろいろあります。
    紅白は年度の好評歌手を出てもらうのとも違い、まだ知名度がない人も、
    「春晩」の舞台に登ってから、すぐ全国に知られますね。

    一九八〇年代~一九九〇年代前半、テレビ局の数はいまのように多くなく、
    春晩の視聴率が高くて、一気に中国の新年「習俗」の地位に昇りました。
    私にとっては、餃子を食べるより、春晩を観るほうは大事です。

    そして、春晩の途中、必ず「祖国辺彊の駐軍」「南極の科学考察隊」「華僑と海外留学生」から
    祝賀の電報が届いて、司会者はそれを読み上げるのは欠かせないものです。
    近年、マスコミの多様化にともない、衛星放送によって、海外でもCCTVの電波が捕まえられ、
    また、インターネットで観ることが可能で、便利になったと報道されています。

    ところが、札幌で過ごした最初の旧正月に、初めて春晩を観られませんでした。
    領事館に行けば観られるが、ウルトラマンを観るために、同胞に捨てられました(爆)
    それで、インターネットを使えばと思い込んで、自信満々にCCTVのHPを開いたら、
    ダメらしい。
    P2Pの中継サイトを利用するのが薦められました(ありえないー)。
    必要なP2Pソフトが入っていないので、急いでダウンロードしてみたら、やぱりダメ。
    ダウンロードした一番使われたP2Pソフトは、上海、湖南など少数の地方局の番組しか中継しなさそうです。
    また別なソフトをダウンロードしてみると、もう23時半に近く、もう観なくてもいいと落ち込んでいました。
    結局、法学研究科の学会帰りの先輩と二人で居酒屋に行き、
    同窓会(二人で全員揃い)をした悲惨な経歴は、たぶん一生忘れられません。

    去年のオリンピックも、似たような事が起こりました。
    春晩は、自分の対策ミスといわれても仕方ないんですが、
    北京五輪は、もっと切なく、悲しかったです。
    最初は、日本のテレビ中継は日本人選手だけを撮ることを、思いましたが、
    飛び込みなど日本選手がいない試合をぜんぜん中継しないことは、予想できませんでした。
    たぶんBSなどが放送しているかもしれません。
    でも、中国のように、ほとんどの試合を中継することはないでしょう。
    (まあ、中国のテレビ番組はふだんつまらないからね)

    またインターネットの出番のはずです。
    しかし、オリンピックは商業なので、買った中継権は大陸向けと制限されているので、
    インターネット、P2Pなどのマスコミは、国内で使えば問題ないんですが、
    海外からの接続は全部禁止されています。

    その時思いました。
    われわれは、子どもの時あんなに五輪招致に関心を払いましたが、
    叶った夢は一体誰の夢ですか。
    (この言い方で、ちょっと恨みが濃く感じられますが、実際は何の恨みもないですよ)
    北京オリンピックは全国人民との間、どのぐらいの距離がありますか。
    こう思えば、世論の「北京受益論」が代表となる批判も受け入れやすくなりました。
    (実は別な問題だけど)
    同時に、著作権や中継権とかに対する抵抗感はますます↑

    幸いに、某国人民の知恵は無限であり、画質は悪いが、ようやく観られました。
    でも、われわれはいざ捨てられてもおかしくないものと思わされた悲しみは
    こころを傷付けました。(←過言です)

    今年の春晩も、危なかったです。
    またたくさんのP2Pソフトで実験しました。
    ふだんホームシックはないけど、この日は絶対一人でいられません。
    どんなにくだらなくても、観たいんですから。
    司会者は電報(Eメール)を読み上げているだろうと思うと、
    誰でもいい、喧嘩したくなりました――子どもっぽく、怒りで悲しみを表しはじめました。

    幸いに、一人ではないんです。
    オリンピックの時使ったP2Pソフトは、正月バージョンが公開されて、
    それを使って、「アメリカサーバー」を通して、
    一度遠まわして(光だから感じられない)、接続が成功しました。

    そうです。札幌に来ても、意外と国内の番組を観たくてたまらない時があります。
    こんなくだらないことで、怒ったり、泣いたり、笑ったりしたことは体験しないと予想できません。
    札幌に来てから、初めて自分のこういうところを知りました。
    10/02/2009

    札幌に来てから初めて その二

    はじめてウルトラヒロイン星光子さんの公式HPを開けました。
    それまでは、接続できないとのお知らせばっかりでした。
    うれしくて、上海にいる友人に教えて、開いてみてもらったら、無事開きました。

    周知のように、大陸から接続できないページが少なくないんですが、
    でも、規制の理由は必ず大陸側にあるとは思いません。
    また、規制状況は漸次緩和になるでしょう。

    上海を離れた時、まだウィキペディアにつなげられなかったです。
    正確的に言えば、つなげられなくなっているのです。
    二年のごろ、学生寮にインターネットの回線が配置されて、
    ようやく自分の机の前に座ったままネットができるようになりました。
    日本語もすこし読めるようになったから、
    日本のウェブサイトでウルトラマンについて検索できて、嬉しかったです。
    あの時、ウィキペディアの記事の数はまだ今日と比べ物にならなかったが、
    ふだん図書館で満足できない、
    特に日本文学に関する知識を知るために、すごく役に立つと思います。
    しかし、そのうち、ウィキがつなげられなくなりました。
    原因といえば、そこに、例の○○○事件に関する記述があるからという説もあります。

    まだ使える時、Googleでものを調べる習慣を養成しましたが、
    突然、使えなくなったら、
    みんなサーバーが校内に置かれた電子掲示板に質問を書き込むようになりました。
    そこで、実験室または会社のパソコンのネットサーバーがアメリカなどに置かれた同窓は、
    ウィキぺディアまた台湾のサイトから記事を引用してくれたこともあります。
    ただし、そんなに多くはありません。数回だけです。
    地方で事件が起こった場合、携帯を通じて、早速各地に伝わり、
    各大学の掲示板は、ある程度の自由を保有しているから、
    言論の生き残る空間になっていることは考えられます。
    ※「ある程度」=普通の反論、ブラックリストに載っていない海外新聞記事は問題なし

    電子掲示板の記事も管理人に削除されたことは珍しくないが、例の法○功とか。
    今になって冗談として平気にしゃべるけど、当時は、キャンパスを歩いている時も
    いきなり、すれ違った人がチラシをくれたことがありますから、正直、怖かったです。
    自分が「日本語教室」の管理人を務めた時も、
    記事を削除したり、知らない人の書き込む権限を禁止したり、ほぼ独裁暴政をしました。
    サッカーのアジアカップのために、日本語科の学生を「売国奴」と罵倒した記事を
    説明せずに、ひたすらに消去しました。
    一晩二〇人の発言権を取消しました。
    あの時、こんな人なら、自由なんか持つ資格はないと思いました。
    もちろん学校側の管理人と意思疎通をした上で、行動したのです。
    せめて、「日本語教室」の存在の合理性や、うちら日本語科学生の存在の正当性は疑いないから、
    守ってあげたいんです。
    ※それ以来、「教室」を攻撃しにくるやつは、確実になくなりましたけどあせあせ

    去年、帰省中にウィキぺディアを使ったことがあります。
    いつから、どの範囲まで使えるようになったのは、聞いていませんけど。

    実は、北大の書庫で、例の事件に関する書物を探しました。
    事件当時、まだ幼児園児だけど、中学生になってから、たびたび他人から所謂「真実」を聞きました。
    クラスメートの親は、大学教師が多いから、凄い蔵書を持っているようです。
    クラスメートはそれをひそかに中学まで持ってきて、授業中ひそかに共有しました。
    卒業試験終わった翌日、教室で集まって答案をチェックしているところ、
    なぜかついに例の事件に関するゼミになりました。
    しかも、歴史科の先生もいました!
    六〇歳近くの先生♀は、平気に、うちらの論議に乗りました。
    当時の指導者が一年前逝去したところ、ほとんど賛美の言葉が溢れてた世の中でしたが、
    先生は、指導者の「軍隊」の使い方が大間違ったと言いました。
    あの時、自分は聞き手で、先生の話もよく分からなくて、その後も先生と話し合うチャンスがなかったんです。

    でもずっと気がかかっていて、資本主義世界(こんな言い方でごめん)の眼差しが知りたいんです。
    札幌に来てから、探してみました。
    しかし、見付けた本には、過激な記述や写真は載っていませんでした。
    逆に、基本の記述は、中学校で読んだ一冊のドキュメンタリー大事記と大体一致しています。
    凄い真実を期待してた気持ちが裏切られた意味で、がっかりしました。
    その時、大学の友人から借りたアメリカジャーナリストが撮ったドキュメンタリーを思い出しました。
    あれも、過激なシーンが含まれていません。
    柴○の涙ながらの演技の下手さと、対照的な、一人息子を失った母親の涙が伝えた悲しみだけ
    記憶に残され、いまだに鮮明です。
    それを見る時、「反共的」な感じが薄かったです。疑問です。
    たぶんどこかに、過激的な本や写真集もあるでしょうが、
    初めて見付けたのは、中国側の政府公告、新聞記事をよく解読するための背景分析の研究書です。

    やっぱり、札幌にきてから、はじめて、「資本主義陣営」の批判は必ずしも敵対的(You Die, I Live)ではないことが考えはじめました。
    01/02/2009

    札幌に来てから初めて その一

    初めて受けた講義は、井上先生の幕末外交史です。

    幕末については、それまではアメリカ軍艦しか何も知りませんでした。
    教科書のアヘン戦争に関する記述・評価のように、
    東アジアは極めて「落後」した封建社会であったというイメージが強かったです。
    すべての条約は、不平等でした。
    すべての外交は、失敗でした。
    ですから、先生の解説にしたがい、初めて幕府の外交交渉の過程と内容を「見た」とき、
    ほんとうに驚きました。
    その時受けたショックはあまりにも大きすぎたので、いま思い出しても亢奮。

    一方、清王朝に対する評価といえば、単なる生産力を比較すれば、実際は欧米に負けないといった観点は新鮮ではありませんが、
    でも、一番気になるのは、やはり、「法」と「法制」のところです。
    中国において、社会転換における革命の重要性が第一とされていますから、
    清は腐敗、落後の代名詞、使いやすい代名詞として、
    自ら行った「洋務」や「変法」とかは高い評価を得るわけがないと思いました。

    もちろん、「革命」という激しい変革のほかに、「改良」による蓄積も認められているんです。
    マルクス主義歴史学によれば、それは、「客観的な」「積極的な」影響と呼ばれています。
    ゆるゆるの、ずっと、認めたくない言い方は、
    アメリカ大陸において、殖民主義者が、原住民を虐殺したり、酷いことをやったが、それも客観的進歩性を持つの
    だって、同じ言い方は、中国大陸に適用できないでしょう。
    本当に南京大虐殺を悲しむとすれば、こんな弁証法を止めなさい~

    話を戻すと、札幌に来て、本格的な実証史学に触れて、
    今まで「客観的」とまとめられた(旅に立つ際の荷物のようにパックされたみたい)「積極的」な影響は、
    実際、その内容はもっと深く、もっと豊富だぞ!ということを初めて感じました。
    幕末の日本も落後ばかりではなく
    清末の中国も落後ばかりではなく
    当時の人々は、当時の国際事情に応じて、自分なりの判断を下さり、
    可能な範囲内で、進みましたね。

    よく言われた法制がなかった清朝。
    留学生に関する多くの研究は、海外に行くのにはパスポートもビザも要らないことで
    当時の法の不完全を説いています。
    でも、日本において、華僑の形成について、こんな記述もあります☆
      1860年『北京条約』調印した後、1920年代にかけて、山東より約100万人が海外へ移住した。それは、山東省の歴史上の第一次移民ブームである。(山東省情史料庫http://sd.infobase.gov.cn/bin/mse.exe?seachword=&K=a&A=80&rec=4&run=13
    なぜ「北京条約」なのか、と思って、調べると、
    「清朝による自国民の海外移住禁止政策の撤廃と移民公認が定められた」からです。
    これも、かなりのショック衝撃です。
    だって、教科書にぜんぜん書いていないものあせあせ(飛び散る汗)
    土地割譲、天津開港、賠償金ぐらいにとどまっているのです。

    不平等条約といっても、労働力の海外への移動は法的な根拠があります。
    中国社会へ大きな影響を与えた海外への移民は、不平等でも法である『北京条約』により始まったこと自体も、大きな意味があるでしょう。
    ですから、開拓使が1876年に山東省農民を招聘することは、まず、合法的です。